2017年06月02日

文化とふれあえるまち

65歳になると市立の文化施設の多くがフリーでアクセスできるようになる。
市役所からの案内を見てかつて視察したボストン、ストラスブール、リヨン、ロンドン等の都市のことをを思い出した。

いずれの都市にも歴史的建造物が残され、近代的な街並みや川面、丘等の自然景観と調和している。
いや、残されているというより、今もシンボルとしてなくてはならない存在である。

一方、我が国ににも東京駅とその周辺のような例もあるが限られている。
点在するスポットを脈絡なく結んでも、ボストンのフリーダムトレイルのように建国の歴史を辿るネットワークにはならない。

ロンドンにも、長い歴史の中から生まれた個性的な街路と広場(ラウンドアバウト)が今も生活を支えている。
また、ストラスブールやリヨンでは自動車の流入を抑制しかつて中心部にあったまちの賑わいを再生している。

気楽にまち歩きできることに加え、その気になれば歴史や文化を深堀できることが何度訪れても飽きないまちの条件だと思う。
まちは変わらないが、訪れる人の成長に応じて違った感動を与えてくれる。

歴史や文化の深堀に欠かせない博物館や美術館等の文化施設はフリーまたは安価で利用できるようでなければならない。
我が国の場合、博物館や美術館だけでなくミュージカル等にふれあうコストは高すぎると思う。

ロンドンの自然史博物館は夏休みの間、夜間無料で開放されていた。
夕方、中庭でお弁当を広げ夜間博物館をまるで居間のように使って楽しんでいたインド人家族を今も鮮明に覚えている。

きっと、子供たちの脳裏には天井からつるされた始祖鳥の骨格の映像が正確に刻まれたに違いない。
文化とふれあえるまちは一朝一夕にできるものではない。

一流だけでなく草の根の文化を育む視点もまちづくりを進めるうえで大切だと思う。


6月2日 Y.I.記
http://www.nmdc.jp/
posted by nmdc-yi at 17:53| まちづくり

2012年09月03日

水清ければ魚棲まず

この言葉は、「水があまりに澄んでいると、魚は身を隠すことが出来ないので住みにくい」ことを意味します。
まちも同じで、あまりに清廉の度が過ぎると、人は近づきがたいのではないかと思います。

「澄んだ水には、餌となるプランクトンやバクテリアがいないから」という別の解釈もあります。
魚は、生態系の中で生きているわけですから、魚だけがいくら澄んだ水を求めても仕方ありません。

ひとも、社会のなかで、異なる考えを持つ人と一緒に空間や施設や環境をシェアして生活しています。
自分の好みだけこだわらずに、相隣関係を大切にしてみんなの意見を調整することが重要です。

近世以降の京都や大阪には、そこに暮らす人が主導して造った素晴らしい街並みが残されています。
そこには、路地などのコモンスペースやまちに住む人の心得を説いた不文律など、持続的なまちづくりを支える仕組みが備わっています。

そして、コモンスペースで繰り返される日常的なコミュニケーションがわが町意識を育て、まちづくりの原動力になってきました。
また、不文律は、まちづくりにおける協働や相隣関係に対する気配りの意識を育て、まちづくりに対するコンセンサスを醸成してきました。

高齢社会を迎え、地域で過ごす生活時間のウェイトが増えつつあります。
冒頭の言葉を噛みしめ、気配りのできる暖かい相隣関係に支えられたまちづくりを持続的に進める仕組みづくりに、もう一度目を向ける必要

がありそうです。


9月3日 Y.I.記
http://www.nmdc.jp/
posted by nmdc-yi at 11:41| Comment(0) | TrackBack(0) | まちづくり

2012年07月01日

人事を尽くして“ブレイク・スルーのチャンス”を待つ

バブル華やかなりし頃、街路事業の用地を先行取得するための制度づくりの仕事に係りを持ったことがある。
既存の制度もあったが、いずれも、手続きに時間がかかり申し出に機動的に対応できないか、対象や財源が限られるという問題を抱えていた。

国の財政も今と比べて豊かで、補正予算の度に、即効性のある事業候補が求められた。
土地を先買してストックしておけば、事業化は容易だった。

しかし、補償費は出せないので、更地を買い取る必要がある。
それができるのは、沿道で地権者が建物を更新する機会などに限られる。

この一瞬を捉えて機動的に用地を先行取得する仕組みが必要なのだが、これが難しい。
事業化が先になると買った土地は不良資産になる恐れがあるので、当然財政担当部局はNOである。

短区間の事業化を可とする、段階整備型街路事業の仕組みを研究し国へ提案したが、具体的な話でないとなかなか乗ってもらえない。
いちいち国に相談し、財政の了解をもらうのではとても機動的な対応はできない。

沿道の地権者にとっても、前面用地を売ると利用できる容積が減るという問題や、道路整備が事業化されないまま放置されると、接道条件を満足できずに建物すらたてられないという問題が残る。
このうち、容積の問題は地区計画で対応できるが、接道条件は事業化が担保されなければクリアできない。

このように、様々な問題に直面し完全に行き詰ったように思った時、突然、ブレイク・スルーの時がやってきた。
市会で都市計画道路の長期未着手や街路事業の長期化の問題が取り上げられ、市としての対応を求められたのである。

これに対する答えとして、営々と研究を重ねてきた用地先行取得制度が一気に日の目を見ることになった。
財政担当部局も、自分がブレーキになっていると思われると困るので、ようやく債務保証の一定枠を認めてくれた。

これを契機に、国の理解も得られ、新たな地区計画制度もできた。
この事例からも、到底、解決不可能と思われる難しい問題でも、いずれ解決の糸口をつかみ、一気に解決できるチャンスがあることをご理解いただけると思う。

ただし、その糸口がつかめたのは、根気よく問題解決の努力を続けてきたからである。
紹介した事例でも、都市計画道路の長期未着手問題は難しいとあきらめ準備していなかったら、市会で逃げの答弁をしておしまいになっていたはずである。

立場の異なる関係者の意見を調整し合意を形成するのは骨の折れる仕事であるが、それを避けていては難しい問題はいつまでたっても解決しない。
むしろ、調整や合意形成の輪を広げた方が、最大多数が満足する高質なインフラ整備を効率的に進められるという発想に転換し、難問の解決に取り組んでいく必要があるのではなかろうか。


7月1日 Y.I.記
http://www.nmdc.jp/
posted by nmdc-yi at 22:12| Comment(0) | TrackBack(0) | まちづくり

2012年05月01日

生活空間における歩行者安全対策

生活空間で歩行者が犠牲になる交通事故が相次いでいる。

事故の多くは、歩道が設置されていない道路で起こっている。

歩道を設置するには、少なくとも双方向道路で12m、一方通行道路でも10m程度の幅員が必要とされる。

停車帯や植樹帯、自転車通行帯の幅員は含まないので、それらが必要な場合には、さらに広い幅員が必要になる。

しかし、今の日本の都市の生活空間においてそんな幅員の道路を探すのは難しい。

例えば、近世の3間(5.45m)道路や6間(10.9m)道路が残される大阪のまちでさえ、歩道を設置できるのは6間道路を一方通行化するケースに限られる。

また、計画的に整備されたまちでも、歩道が設置されているのは幹線道路が中心で、生活空間の道路では、歩道が未設置、又は設置されているが狭幅員などが原因で、自動車や自転車との衝突の危険にさらされている場合が多い。

これに対して、道路を拡幅すれば問題は解消するが、幹線道路の整備すら遅れている現状ではそれも難しい。

そこで、次のような方策を組み合わせ、少ない投資で歩行者の安全性を着実に向上させていく必要があると思う。

・幹線道路の整備と生活道路内の自動車通行規制を通じて通過交通を幹線道路に誘導する
・通行規制と狭窄、ハンプ等の道路構造の工夫を通じて生活ゾーンの自動車の速度を抑制する
・自動車の減量化や速度抑制等の安全対策を講じた上で、自転車を車道(できれば専用レーン)に誘導する
・歩道や車止めを設置するとともに、電柱やバス及び信号待ちスペース等の歩行者通行支障物件を排除する

これらの対策は、現状では警察庁や国土交通省を中心として個々に実施される場合が多いが、対策を組み合わせた方が効果的と考えらること、効果的な対策の組み合わせは地域によって異なると考えられること、住民の協力を得て円滑に進む対策も多いことから、今後は、都市が中心となり協働のまちづくりとして実施することが望ましいと思う。
これまでの全国一律のモデル事業の実施による一過性の取り組みではない、永続性のある創意工夫に満ちた取り組みへの転換が必要な気がする。

5月1日 Y.I.記
posted by nmdc-yi at 17:51| Comment(0) | TrackBack(0) | まちづくり

2012年03月01日

歩行者天国

最近、秋葉原の歩行者天国を視察した。

あの凄惨な事件の記憶もあり、さぞかし厳重な警備のもとで再開されたのだろうと思っていたが、予想は見事に裏切られた。

警察官やガードマンの姿は少なく、地元の人と思しき人が明るい色のユニフォームをまとって、案内等を行っている。

警備は緩いが、かつての怪しい、危険な雰囲気はない。

むしろ、珍しそうに記念撮影をする外国人観光客の姿やのんびり道を歩く子供連れの姿など、かつての秋葉原にはなかった明るい光景が広がっていた。

最初は、再開に反対する人も多かったようだが、地元の町会、電気街、商店街と千代田区、警察、消防がひとつにまとまって、防犯のための活動やまちづくりに取り組むことを通して信頼関係を醸成し、歩行者天国の再開にこぎつけたとのことである。

こうした苦労の甲斐あって、再開後にも運営や警備に地元の人達が協力する体制が維持されている。

ガードマンの姿を見かけないのは、このためである。

秋葉原の様な大規模な事例の場合でも、ガードマンの人件費の負担は地元には重すぎるとのことである。

地元の協力による身の丈に合った運営こそが、まちづくりを持続させる秘訣なのかもしれない。

歩行者天国がこれからも持続し、秋葉原の新しいブランドイメージを醸成する舞台になってほしいものだ。


3月1日 Y.I.記

Akiba.JPG
posted by nmdc-yi at 10:01| Comment(0) | TrackBack(0) | まちづくり

2011年09月05日

脳や細胞の環境適応と防災まちづくり

脳と細胞は、環境変化に柔軟に対応する巧妙な仕組みを備えている。

例えば、整然と配列された細胞も、位置や数を決めて計画的に造られているわけではなく、余分に造って必要な細胞が選別されて出来上がっていく。
そうすることで、その時点の環境により適応した細胞を残すことができる。

また、脳の一部が損傷した場合、体の一部がマヒすることがある。
損傷した部分を通って伝えられていた信号のルートが遮断されることが原因だ。

それでも、脳は別のバイパスをつくって、信号を伝え回復を試みる。
これも、緊急事態に即応するため脳が備える巧妙な仕組みのひとつである。

しかし、この仕組みでは、沢山の信号を出すのに脳は活性化するものの、信号が多すぎて、ひとつひとつの信号は微弱になって体に伝わらない。
そこで、本命の信号を体に教えて、マヒを回復させる治療法の研究が進み、成果を上げている。

その治療法のひとつに、褒めることを通して本命の信号を脳におぼえさせる治療がある。
褒めると脳にアドレナリンが分泌され、本命の信号が快楽につながるものとして記憶される。

その結果、脳は、快楽を伴う本命の信号のみを送るようになり、マヒは回復する。
この治療のポイントは、うまくできた直後に、対象を具体的にして褒めることにあるそうだ。

こうした脳や細胞の環境適応の仕組みを、まちづくり、特に防災に活かせるのではないかと思う。

例えば、従来、特定の被害想定に基づいて策定された防災計画では、東日本大震災のような大災害に即応できないといわれるが、細胞の環境適応の仕組みを応用するとどうだろう。
様々な被害を想定して計画を想定し、重点の置き方のみ見直せば良いことになる。その方が、様々な災害や環境変化に柔軟に対応できる。

一方、損傷に即応する脳の仕組みは、分散型国土や多重ネットワークの形成によるしなやかな国土形成の必要性に通ずるものである。

また、褒めるというリハビリ治療法は防災を含む日常のまちづくりに応用できる。
日々の課題に対する取り組みに対して褒める仕組みを導入し、まちづくりに参加することが楽しいと無意識に感じられるようにすればよい。

ただし、実践を伴わない討論会やワークショップなどを続けても、褒める具体的な対象を見つけることがだんだん難しくなる。
継続的な効果を期待するには、長期的な課題に対応するために、すぐに取り組める実践的なテーマを発掘し、褒められる体験を積み重ねていける仕組みづくりが必要な気がする。

その場合、実践的なテーマの発掘や実践による効果検証で、未知の想定ケースに対する認識が異なっていれば、参加者の意見は噛み合わない。
想定ケースを、参加者の全員がリアリティをもって共有できることが最も重要なポイントになる。

我々も、脳や細胞のもつ環境適応力に学び、交通シミュレーションによる、現況や未知の想定ケースにおける交通現象のリアルな再現・予測を通して、防災文化や防災教育の振興に向けたまちづくりに貢献していきたいものである。


9月5日 Y.I.記
http://www.nmdc.jp/
posted by nmdc-yi at 14:15| Comment(0) | TrackBack(0) | まちづくり

2011年08月10日

復興計画とまちづくり

東日本大震災の復興計画では、大津波の危険が少ない高台に新しいまちをつくり、まちぐるみで移住させるという考え方がある。

区画整理によるささやかなまちづくりにおいてさえ難しい合意形成が、まちぐるみでできるか、はなはだ疑問である。

区画整理によるまちづくりが停滞しているのは、仕組みの問題より運用する人の問題が大きいように思う。

昔は、どこの町にも有力者と呼ばれる人たちがいて、その人たちが納得すれば事は運んだ。

およそ民主主義的ではないが、意見の違いを越えて合意形成を実現するには、やはり万人が認めるリーダーの調整力が不可欠なのであろう。

民主的に選んだ町内会の役員や議会の議員が、有力者に代わってリーダーシップを発揮できればよかったがそうはならなかった。

結局、仕組みの手直しばかりを繰り返したが、うまくいかなかった。

そんな中で東日本大震災が起こり、災害に強いまちづくりの観点から冒頭の復興計画が提起された。

提起された復興計画は、防災の観点からみみれば望ましいことに間違いはない。

しかし、そこで生活を営む人の中には異議を唱える人も多いので、合意形成には時間がかかる。

これに対して、国なり、専門家なりが中心になって、迅速に計画づくりを進めるべきであるとの意見もある。

おそらく、酒田の復興都市計画を念頭に置いたものと思うが、政治や行政のリーダーシップが失われている現状でその再演は難しい。

もし、産業クラスターの形成を起爆剤に新都市を建設する計画なら、関係者も少なく合意形成も比較的容易なので、実現するかもしれないが、既成市街地の復興については、やはり時間をかけて合意形成を図るしか方法はない。

その点、阪神大震災後、神戸の復興は、迅速に運んだ。

震災直後は行政が主導して街路や防災公園などの計画づくりを行い、その後住民も加わってディーテールを計画するという2段階で復興計画を作り上げた。

この方法は、防災と住環境という異なる要求を満足させ、しかも迅速な合意形成を実現した点で評価に値する。

例えば、六甲道南公園は防災公園として計画されたものであるが、現在では子供の遊び場や大人の憩や語らいの場、さらにはイベント会場として多目的に利用され、周辺の住環境のレベルアップにも貢献している。

しかし、この方法が神戸市でうまくいったのは、大震災以前から住民と行政による協働のまちづくりに対する取り組みの積み重ねが大きかったように思う。

まちづくりは、災害という自然の脅威に立ち向かい、社会生活を快適にする術を人間に授ける文化であると考えることができる。

まちづくりが軌道に乗り合意形成に至るには時間がかかるかもしれないが、その取り組みが災害からの迅速な復興と快適な生活環境を創造する英知を生む唯一の力になることは、神戸の事例が教えてくれている。

もう一度、まちづくりの文化的な側面を再評価し、被災地だけでなく全国でまちづくりに対する取り組みを活性化させる必要があると思う。

8月10日 Y.I.記
http://www.nmdc.jp/
posted by nmdc-yi at 10:55| Comment(0) | TrackBack(0) | まちづくり

2010年10月29日

現行都市計画制度の課題とまちづくりについて

まちづくりに対する住民のパワーが盛り上がった70年代、我が国の都市計画制度について様々な議論が展開された。その後、まちづくり活動の停滞と歩調を合わせるかのように、都市計画制度に関する議論も勢いを失い、現在に至っている。

このブログでも過去に取り上げた(7/31、3/31)地域自治組織の一部として取り込まれかねないまちづくり組織の危機が生じた背景には、結局は都市計画がその理念、すなわち「健康で文化的な都市生活及び機能的な都市活動の確保」という目標実現に向けた能動的な役割を見失い、地域自治という行政手続きと同列の問題に矮小化してしまっているところにあるように思う。

そこで、当時議論された3つの論点を取り上げ検証する。

1.マスタープラン
都市計画法では、「…当該都市計画区域の整備、開発及び保全の方針を定める…」(第6条の二)こととされており、都市計画の目標や方針が規定される。これが、都市計画のマスタープランに該当するが、都市計画区域が複数の市町村にまたがる場合など対象エリアが広すぎて、具体性に欠けるとの指摘も多かった。そこで、市町村マスタープランの策定に対する補助制度が拡充されたが、結局まちづくりの目標や方針を議論するレベルには至らなかった。

現状では、市町村マスタープランの策定も下火になり、結局「Top down」の都市計画と「Bottom up」のまちづくり計画という、双方向の計画の融合による目標の共有は実現しなかった。その結果、目標実現に向けた都市計画の能動的な役割を見失わせる一方、本来都市計画の目標実現のための有効な手段であるはずのまちづくりも、参加と協働の求心力の源泉である目標を失った。そして、目標を失った都市計画とまちづくりは形骸化し、地域自治という伝達や合意形成の手続きと同列の問題に矮小化されようとしている。

2.都市計画制限
都市計画法では、「都市計画施設の区域又は市街地開発事業の施行区域内において建築物の建築をしようとする者は、…、都道府県知事の許可を受けなければならない。…」(第53条)とされている。これが、都市計画制限と呼ばれるもので、例えば都市計画道路の区域などでは昭和25年に都市計画決定されて以来、60年もの間制限を受けている場合も少なくない。そこで、都市計画の廃止や計画制限の緩和、早期着手に向けて検討が進められたが、実際に対応がなされたのは一部に限られる。

近年、財源不足もあって都市計画道路の整備のペースが鈍化しており、この長期未着手問題の一層の深刻化が避けられない。これに対して、計画の再検討が早急に必要とされる。しかし、行政ベースで行われているのは、需給バランスを評価基準とする「造るか、造らないか」の2者択一の検討が中心である。

都市計画道路が都市計画の目標実現の手段であるなら、その再検討は計画目標の再検討を含めて行われることが当然と考える。そうすれば、歩行者専用道路やトランジットモールへの転用、必要に応じて順次完成させていく段階整備のアイデアなども生れるかも知れないのに、実際には、将来人口予測に基づく需要予測に大半の労力が割かれている。都市計画の目標が、将来増大する需要に対応することであれば、それでも構わないが、それなら一般の幹線道路計画との違いは何処にあるのだろう。

このような、奇妙な都市計画が幅を利かせる原因も、まちづくりや都市計画の目標や戦略について意見交換する日常の場が欠如しているからだと思う。まちづくりが地域自治の仕組みに組み込まれれば、「Top down」の方針に対する合意形成の役割ばかりが重視され、お互いの意見の共通点や相違点を確認しながら自分たちで目標や戦略をまとめあげる、「Bottom up」のまちづくりを育てることはできなくなると思う。

3.都市計画事業制限
都市計画法では、「当該事業地内において、都市計画事業の施行の障害となるおそれがある土地の形質の変更若しくは建築物の建築その他…を行なおうとする者は、都道府県知事の許可を受けなければならない。…」(第65条)とされている。これが、都市計画事業制限と呼ばれるもので、事業が長期化すると施工区域内だけが更新から取り残され、市街地環境を悪くする要因となる場合も少なくない。そこで、事業評価や再評価の実施により事業期間の短縮や事業休止などの取り組みがなされている。

しかし、現在実施されている事業評価や再評価では、自動車の走行時間短縮便益の評価が重視され、自動車交通量が多い路線ほど整備の必要性が高いと判断される場合が多い。また、評価指標作成ツールとして用いられる交通量配分は、一日の道路各区間の需給バランスから速度を求める手法のため、交差点や踏切、ランプなどの合流部などの隘路が原因で発生する渋滞の影響も、信号や交差点、合流部の改良の効果も、ともに考慮することができない。そのため、実際には、信号の運用や交差点・合流部の局部改良の必要性や効果が見落とされる場合がある。

必要性が見落とされると実際に渋滞の解消を望む声が強くても事業化が見送られるか事業実施の優先度が低いという評価を受ける。一方、現状の事業制度のもとでは、一定のまとまった区間(例えば交差点間)を事業化するので、必要性が認められた場合も、効果の期待できない区間の整備と一緒に整備される。何れにしても、効率的で効果的な整備とはならない場合が多いものと考えられる。この点については、現地を知る人も加えて、「Bottom up」の評価も考慮する必要があるように思う。

もうひとつの問題は、自動車交通機能に偏った評価になっている点である。客観性を担保する評価の方法が見いだせないのが他の評価指標を用いない理由の様である。ただ、国土交通省のマニュアルにもある通り、評価方法をオープンにした上で必要な指標を加えることが推奨されている。この点についても、現地を知る人も加えて、「Bottom up」の評価を考慮する必要があるように思う。

まとめ

まちづくりのパワーは、意見の共通点や相違点の相互理解が成立しているコミュニティの中で醸成されるものであり、地域自治組織のように伝達や合意形成の手続きからは決して生れない。

まちづくり組織では、合意形成よりもお互いの主張を認めあう関係がより重視されるべきであり、合意形成できない時は解決を先送りし、検討の継続に注力することが重要なのだと思う。

手間と時間が必要な「Bottom up」のまちづくりを育てることが、結局、都市計画の諸課題を解決する唯一の道の様な気がする。

11月1日 Y.I.記
http://www.nmdc.jp/
posted by nmdc-yi at 14:46| Comment(0) | TrackBack(0) | まちづくり

2010年07月31日

まちづくりと地域自治組織

20年前、仕事で大阪市の公共用地率を調べたことがあった。市域面積比で、道路が17%、公園が3%、河川が10%で、合わると30%だったと記憶している。

これは、我が国の大都市の中では優等生であるが、欧米の大都市の水準の40〜50%と比べると劣等生である。
その後、公共事業の抑制が続いたので、今でも、この数字に大きな変化はないと思う。

この数字からわかるように、日本の都市では、土地利用の主体の構成は倍以上も民の方が大きい。
これは、優等生の大阪市の場合であり、他の都市ではもっと民の比率が高いことになる。

こんなことを思い出したのは、参加と協働のまちづくりは何故必要なのか考えていた時である。
日本の各都市でまちづくりに対する取り組みが停滞しているが、そんな時、地域自治組織なるものが登場し、既成のまちづくり組織との線引きが課題とされている。

地域自治組織とは、総合的な地域の合意形成のための組織とあるが、要は町内会や婦人会などの地縁組織を体系的に組織したいというトップダウンの発想のようである。
まちづくりもその一部だから、まちづくりの制度もその下位の部分的な仕組みとして再編したいのだそうだ。

これを聞いて、最初に浮かんだのは大政翼賛会のイメージである。総動員体制を効率的に作るために大日本婦人会や大日本青少年団等のあらゆる組織が大同団結した組織である。

確かに、戦争の遂行という国家目的を効率的に達成しようとすれば、みんなが参加している組織がある方が便利に決まっている。でも、個人の意見は全体の意見の前に封殺されてしまう。

まちづくりは、個人の生活と深くかかわる。様々な意見が存在し対立するというのは当たり前で、むしろその方が健全だと思う。合意形成と言えば聞こえはいいが、実際には、全体が個を圧殺することに他ならないのではないか、という懸念を抱くのは私だけだろうか。

参加と協働というまちづくりの原則を否定する人はいないと思うが、この言葉の主語はと聞かれると困ってしまう。一般には、市民又は住民が主語と思われているが、7割の土地利用の権利を有し、最もまちづくりの恩恵を受ける市民や住民が、自分たちのためのまちづくりに参加し協働するのは、ある意味当たり前のことである。

むしろ、まちづくりに参加し協働すべきなのは、3割の土地利用の権利しか持たない公の側だと思う。住民が発意するまちづくりに参加し、協働する公の仕組みを整えることが、日本の都市に求められていると思う。


8月1日 Y.I.記
http://www.nmdc.jp/
posted by nmdc-yi at 18:16| Comment(0) | TrackBack(0) | まちづくり

2010年03月31日

問題解決から価値創造へ

協議会方式のまちづくりの停滞が顕著になってきた。

その原因として、まちづくりを動機づける危機感が薄れたという意見や初動期の計画作りに対する支援が中心で実現の手段を持たない現在の仕組みに問題があるという意見がある。

前者の意見が正しいとすれば、危機に直面するまでじっとしていればいいことになる。また、後者の意見が正しいとするなら、まちづくり支援の仕組みを初動期だけでなく事業実現のステップにまで拡張すればいいことになる。

確かに、社会資本整備が進み成長も鈍化したので交通渋滞や鉄道混雑などの問題を、以前ほど意識しなくなった。また、せっかく作った計画もほとんど実現していないケースが多く、そのことがまちづくりに対する熱意を失わせる要因のひとつであることも疑う余地のないことである。

でも、危機が再来すればまちづくりは再び活性化するのだろうか。また、まちづくり支援の仕組みを変えるだけで、計画が実現したり、実現しなくてもまちづくりに対する熱意が保持できるようになるのだろうか。

私は、そうは思わない。何故なら、協議会方式のまちづくりを主導したまちづくりの担い手は舞台を離れ、過去を知らない人達がまちづくりの担い手になっているからである。

危機が再来しても、まちづくりの経験を持たない現在の担い手は困ってしまうし、そもそも初動期の計画作りも経験しない現在の担い手に事業実現の仕組みを準備してもあまり役には立ちはしない。

むしろ、これまでのまちづくりで培ってきた仕組を活かして、動機づくりや計画づくりなど初動期のまちづくりから始める必要があるように思う。
まちづくりの仕組みは、参加する担い手たちが必要に迫られて自身で作るべきであり、その原則は堅持しなければならない。

交通問題など表面的な問題を意識することが少なくなり、従来型のまちづくりの動機づくりは難しくなった。
しかし、地元志向や人と人のつながりに対する欲求など身近な環境改善に対する意識は強まりつつある。

このような環境変化に対応できるよう、まちづくりに対するアプローチを問題解決型から価値創造型に転換していく必要があるように思う。



3月31日 Y.I.記

http://www.nmdc.jp
posted by nmdc-yi at 15:39| Comment(0) | TrackBack(0) | まちづくり

2009年09月30日

続 交通の視点から見たまちづくり

アイボリーフォーラム(主催 豊中駅前まちづくり会社)で、「交通の視点から見たまちづくり」と題する講演を行った(9月15日)ので、引き続き紹介したい。

主催者である豊中駅前まちづくり会社が、わが国のまちづくりの先駆的事例となった豊中駅前のまちづくりを承継する由緒正しい会社であることや、約15年に及ぶ私と豊中駅前の交通問題との係わりについては、前回も紹介した通りである。

このフォーラムは、月1回のペースで開かれ、毎回著名な方々が興味深いテーマで講演されている。
このテーマで私が講演して、果たして何人の人が来てくれるか、正直不安だった。

しかし、いつもと比べると少なかったそうだが、それでも30名くらいの人達が来てくださった。
用意したスライドは20枚程度。仕事で、専門家相手であれば30分程度で済む内容だが、今回は専門家でない人にも興味を持ってもらえるように、事例の写真等も見てもらいながら1時間を超える時間をかけて丁寧に話をした。

話の構成は、下記の3部構成で、結論(3.)として、「きっかけづくりは井戸端会議から」、「まちづくりには、合意形成と事業実施の2段階で異なる仕組みを担保する」ことが重要であることをお話し、これらの仕組みを備えた「豊中方式」の再評価が必要ではないかと問いかけた。

1.交通とまちづくりの強い相互関係
2.交通とまちづくりの連携を阻むもの
3.交通まちづくりの仕組み作り

この講演では、私にも収穫があった。
それは、従来、豊中方式の協働の概念を「みんなの計画、役所の支援」という言葉でとらえてきたが、これは計画作りにおける合意形成の仕組みを言ったもので、計画の実現には、これに加えて「役所の事業、みんなの支援」という仕組みを担保しなければならないことを明確に認識できたことである。

いくら計画ができても実現しなければ何の意味もないし、住民の計画作りに対する熱意もいつかは萎えてしまう。
計画を実現するのは役所の事業であり、住民から提案された計画の実現を担保する仕組みを備えていなければならない。

豊中市の条例で担保しているのは、計画作りにおける合意形成の仕組みである。
しかし、平成9年に豊中市がまとめた「豊中駅前まちづくりについて 基本方針」は、豊中駅前まちづくり協議会の計画提案を受けて、市が庁内横断的なプロジェクトチームを編成してまとめたもので、「役所の事業、みんなの支援」の概念を先取りする画期的な仕組だと思う。

もう一度、この基本方針に光をあて、事業段階の協働の仕組みを構築することが、まちづくりに対する閉塞感を突破し、PDCA(Plan Do Check Action)サイクルを備えた協働のまちづくりの仕組みを完成させる橋頭保になると思う。
微力ながら、交通問題をきっかけに協働のまちづくりに取り組む楽しさや課題を感じてもらい、さらに専門家でない参加者も巻き込むコミュニケーション・ツールとして交通シミュレーション活用法の開発・実用化を通して、お手伝いを続けたいと思う。

アイボリーフォーラムや豊中駅前まちづくり会社の詳細は、ホームページ参照 http://www.tmconet.com/forum.html

9月30日 Y.I.記

http://nmdc.jp
posted by nmdc-yi at 15:20| Comment(0) | TrackBack(0) | まちづくり

2009年08月31日

交通の視点から見たまちづくり

9月に、このテーマで講演を引き受けた。
主催は、豊中駅前まちづくり会社、わが国のまちづくりの先駆的事例となった豊中駅前のまちづくりを承継する由緒正しい会社である。

私と豊中駅前の交通問題との係わりは、約15年前に遡る。当時、豊中駅前では、まちづくり協議会が市役所(中心はまちづくり支援室(当時))の支援を得て豊中駅前まちづくり構想をまとめた。
市役所は、これを受けて、市として豊中駅前のまちづくりにどのように係わっていくかを基本方針にまとめ、まちづくり協議会に諮った。

驚くべきは、まちづくり協議会という組織や上述したまちづくり協議会と市役所の協働の仕組みも、すべてこの時既に条例化されていたことである。
当時は、役所が計画を作り、市民は無関心か反対するという構図が普通で、豊中駅前のように市民と役所がキャッチボールしながら協働して計画をつくる仕組みが、条例で制度化されているような例は珍しかった。

このように、豊中駅前は私がまちづくりについて学んだ場所であり、正直冒頭のテーマで何を話せばいいのか正直戸惑ったが、交通の専門家としてまちづくりにどのように係わればいいのか、日頃考えてきたことをまとめる良い機会でもあると思って引き受けた。

交通問題はまちづくりの主要なテーマでありながら、豊中駅前のように協働して計画作成に取り組む事例はまだまだ少ない。社会の絆の回復や参画型社会の実現など社会の仕組みの再構築の重要性が叫ばれる中、身近なまちづくりに目を向けて協働の喜びや問題解決の成功体験を積み上げていくことが必要だと思う。

交通問題をきっかけに協働のまちづくりに取り組む楽しさや課題、さらに専門家でない参加者も巻き込むコミュニケーション・ツールとして交通シミュレーションの活用などについて、事例をまじえて紹介していきたいと思う。

詳細は、ホームページ参照 http://www.tmconet.com/forum.html



8月30日 Y.I.記

http://nmdc.jp
posted by nmdc-yi at 16:01| Comment(0) | TrackBack(0) | まちづくり

2009年06月30日

リオの七夕

ブラジルに移民した従妹から、リオの日系協会主催の「たなばた祭り」の案内メールが届いた。
曰く“願いことを短冊に書いて飾りましょう。…中略… 願いことの後に、日系協会自慢の美味しい焼きそば、うどん、寿司、手巻き、焼き鳥、…中略… アトラクションには太鼓、折り紙、盆踊りなども企画しています。”(原文は、ポルトガル語と日本語併記)

日本では、幼稚園や一部の観光地の行事としてしか見かけなくなった七夕が、はるか地球の裏側のブラジルで残されている。
日系協会では、この他にも、もちつき、花見、お盆などの行事を通じて日本人社会の絆を保持する活動に取り組んでいる。

日本と比べると参加者の年齢層も幅広く、1世の日本人の風貌をしたじいちゃん、ばあちゃんから、3世、4世の日本人とは異なる風貌をした若年世代まで、さまざな人達が参加するようである。
参加した人たちがどんな願い事をし、そのあとどんな楽しみ方をしているのか、想像するだけで楽しそうである。

日本でも、こうしたハレ(非日常)の風景を取り戻したいものである。
そのためにも、ケ(日常)の生活を支え、ケガレ(活力低下)を癒す社会の絆の再構築に向けて、協働のまちづくりに対する幅広い取り組みが求められる。


6月30日 Y.I.記

http://nmdc.jp
posted by nmdc-yi at 18:09| Comment(0) | TrackBack(0) | まちづくり

2008年06月30日

“苦闘 元の街に住みたいんや!(中山久憲著、晃洋書房)”を読んで

今年度から、豊中市のまちづくり専門家会議の委員を引き受けることになった。思えば、私も作成に参画させていただいた、豊中駅前まちづくり基本方針の策定から丁度10年。この機会に、市民主導のまちづくりのあり方について、考えたいと思っていたところ、住民主体の震災復興まちづくりをテーマにした表題の本とめぐり会い、示唆を得たので紹介したい。

この本では、行政主導の震災復興事業の網がかからず、住民主体で復興を進めることを余儀なくされた「白地地区」のひとつである、湊川町のまちづくりの記録をもとに、住民主体のまちづくりの進め方についての著者の見解が述べられている。

震災という特殊な状況では、平時のコミュニティに関する考え方は全く通用しなかったと著者は述べている。その点で、この本で精緻にまとめられている記録やそれに対する著者の見解は、今後同じような事態に遭遇した場合の対処法について、示唆に富んだ内容になっている。

同時に、私は、この本の内容に現在、平時の住民主導のまちづくりが直面している“組織化されない市民の合意をどのように形成するか”という問題を解くヒントも隠されているように思う。平時に潜在する人間の“本音”は、震災のような極限状況の下でしか顕在化しない、その理解なくして平時においても合意形成は難しいと思うからである。

このケースでは、理想の(+を増やす)まちづくりよりも、現実主義の(−を減らす)まちづくりの方が合意を得やすかったと著者は述べている。震災復興のように、将来に不安を抱えている状況下では、行政主導でリスクヘッジされている場合は別にして、自らその責任を負う住民主体のまちづくりの場合、それもやむを得ないと思う。

一方、平時のまちづくりでは、震災復興ではできない“理想の(+を増やす)まちづくり”について考える必要があるのではないか。実現は難しいとしても、その過程で生まれる連帯感や利害調整のルールづくりの経験が、組織化されない市民によるまちづくりの新しい形を作り、震災のような非常時にも通用するまちづくりの素地を作ることにつながるのではなかろうか。


6月29日 Y.I.記


http://nmdc.jp
posted by nmdc-yi at 09:17| Comment(0) | TrackBack(0) | まちづくり

2008年05月16日

“木を見て森を見ず”から“森を見て木を見ず”へ

情報社会が進めば進むほど、情報に対するアテンション(現代経営用語で、個々の事柄にどれだけ注意を向けられるかを意味する)は低下し、決断力がより(経営者に)求められるようになる。

最近、新聞でこれに類する面白い記事を見つけた。ある人形細工師が、師匠の傘寿の祝いに写しの首(かしら)を造った。顔面神経麻痺の後遺症の様子まで細かく写そうとしたが、かえって全体の印象を失ったというエピソードである。

些細なことを気にしすぎるとかえって全体を見失うという結論だが、冒頭で書いたことと共通するのは、“木を見て森を見ず”という教訓ではなかろうか。

確かに、情報が沢山あれば予測精度は向上することは間違いない。だが、それはあくまで思考の対象に入っている事象についてである。経済発展に伴う移動量の増加は、両者の関係についての情報量を増やせば予測精度を上げることができるが、環境の制約は加味できない。

案外、私どもの扱う交通シミュレーションのように、細部の厳密性より現象全体の再現性や分かり易さを重視する方法論の、まちづくりの意思決定のツールとしての有効性が高まっているのかもしれない。

“森を見て木を見ず”、すなわち情報に流されずに、社会全体のうねりをぼんやり眺める“ぶれない自分”を取り戻すことも時には必要ではなかろうか。

5月15日 Y.I.記

http://nmdc.jp
posted by nmdc-yi at 09:35| Comment(0) | TrackBack(0) | まちづくり

2008年04月28日

仲間と社会

先日、“ごくせん”というテレビドラマを見た。
極道の娘が不良少年が集まるクラスの担任として活躍する荒唐無稽な番組である。

痛快な番組は後を引かないものだが、そのドラマには妙に残る言葉があった。
それは、“仲間”である。

「そばにいてほしい時にいてくれるのが“仲間”」、「喧嘩は、自分のためにするものではない、“仲間”のためにするもんだ」、・・・

“仲間”とは、広辞苑によると「ともに事をする人。同じ仕事をする人。また、その集まり。」のことを指し、気取れば“社会”とも言い換えることができよう。広辞苑にも、“社会”に「同類の仲間」という意味を含むとある。

すると、“ごくせん”は社会や社会のために働くことの大切さを訴えていることになる。案外、このあたりに共感を覚えたのかもしれない。

多様な人種を受け入れ、異なる文化を融合して発展してきた日本、それは優れた仲間づくり、社会づくりの知恵が育んだものだったに違いない。その知恵を再構築し、独自の文化を受け継いでいくことが、まちづくり、くにづくりのなかにも求められているのではなかろうか。

4月28日 Y.I.記

http://nmdc.jp
posted by nmdc-yi at 13:47| Comment(0) | TrackBack(0) | まちづくり

2008年03月28日

“ぶれない”ということ

“ぶれ”とは、広辞苑によると「定まった位置からそれること」。
したがって、“ぶれない”とは定まった位置からそれないことをいうのであろう。

同じような言葉に“不易流行”という言葉がある。芭蕉の言葉で、「不易は永遠性、流行は新風をさし、ともに風雅の誠から出るもので根は同じ」という意味だそうである。

ふたつの言葉を重ねて、不易≒“ぶれない”、流行≒“ぶれる”と考えると、不易流行とは、“ぶれる”と“ぶれない”は同根であると言っていることになる。

一見矛盾しているようにも見えるが、実はこの言葉には真理を解く鍵が潜んでいる様な気がする。わかりやすい例では、ゴルフや野球、サッカーでスイングする場合、軸を固定しないと回転するパワーは生まれないということと同じである。

社会の変化に対応するということは、決して流行≒“ぶれる”ことだけを追うことではない。同時に不易≒“ぶれない”自分を見つけることが大切なのではなかろうか。

社会基盤整備に携わる立場から、変化の激しい今こそ流行に流されず、人間や環境のあり方(定位置)を問い続ける、“ぶれない”生き方を志したいものである。

3月28日 Y.I.記

http://nmdc.jp
posted by nmdc-yi at 18:35| Comment(0) | TrackBack(0) | まちづくり

2007年11月29日

交通問題に対する住民意識の変化

まちづくりアドバイザーとして、T市駅前のまちづくりに関わりを持ち始めて10年以上が過ぎた。
まちづくり協議会と市が協働して作ったまちづくり基本方針も策定から10年を迎え、レビューが必要な時期を迎えていた。

丁度、市から依頼があったので、3回の交通まちづくり講座を通じて交通問題をレビューする場に参加する機会を得た。その中で感じた、交通まちづくりの現場の変化について書いてみる。

交通まちづくり講座は、第1回は問題点、第2回はその発生要因、第3回は対策をテーマに、ワークショップ形式で協議会メンバーの方々の意見を聞く形で進めた。10年前にも同様の場に数多く参加したが、いくつか違う点があった。

第一に、参加メンバーである。10年前には商業者の方々が中心だったが、今回は住民の方々の参加が中心だった。

第二に、問題認識である。10年前には混雑の問題をあげる意見が多かったが、今回は安全や歩きやすさに関する意見が多かった。

第三に、対策の重点の置き方についてである。10年前に中心だったハード整備に対する要望よりも、施設の運用や使い方の改善など、できることからやっていこうという意見が多かった。

これらの違いは、まちづくりの主役としてアマチュア市民が登場し、自分たちの言葉で語り始めた結果ではなかろうか。専門家にしかわからないと嘯くことなく、謙虚にコミュニケーションツールや能力の開発に取り組む必要性を感じた。

11月29日 Y.I.記

http://www.nmdc.jp
posted by nmdc-yi at 10:00| Comment(0) | TrackBack(0) | まちづくり

2007年09月28日

日本の精神風土とまちづくり

京都大学の正高教授(認知科学・比較行動学・霊長類学)が日経新聞の経済教室(2007年5月2日)に面白いことを書いていたのを思い出して読み返してみた。日本人の生活は、集団労働が不可欠な農耕で支えられてきた歴史があるため、血縁より地縁が重視されてきた。そして、庶民として名も無く生き、目立たぬように、周囲と同質すなわち安心という形で心の安定を保つ日々を送ること、すなわち世間‐庶民‐安心という三点セットが生活形態の基本とされた。これは、欧米流の社会‐市民‐信頼という3点セットで支えられる生活形態とは明らかに異なる。こうした特殊化が進むと、激変する環境変化に対応できない過剰適応を引き起こすので、移民の受け入れ等の工夫が必要ではないかという論旨である。

さて、私の興味は、これが日本のまちづくりにもあてはまるのかという点と、、あてはまるのであれば特殊化を是正する処方箋はという2点である。
まず、最初の点については、YESだと思う。いや、正確に言うとあてはまっていたというべきかもしれない。“出る釘は打たれる”ので“目立たぬように”生きることを教えられ、人と同じモノを欲しがって大衆消費社会を支えてきた我々以前の世代は、確かにそうだった。でも、私の世代以下にはあてはまらないように思う。しかし、その世代が欧米流の“社会‐市民‐信頼”という3点セットで支えられているかというとそうでもない。その世代の人にも色々あるので、正確にはにはどちらでもない、社会と個人の関わりの規範そのものをもたない人が増えているのではなかろうか。啓蒙のまちづくりから市民のまちづくりへの進化、その前途は多難である。
次に、市民のまちづくりへの進化を支える個人と社会の関わりを正常化するための処方箋について考えてみたい。わが国では、政治(=祭事)はお上(=神)のすることで、逆らわなければ慈悲の心で守ってくれるという考え方が脈々と受け継がれてきたと思う。これは、民族や宗教の対立の少ないわが国の特殊性に起因するのではなかろうか。国民は、みな兄弟で黙っていても分かり合えるのである。しかし、欧米では、民族や宗教の対立は避けて通れない。“まち”という社会を造るにも、対立を回避するためのルールを決め、それを守ることを契約として明文化しなければならない。
日本の精神風土を支えてきた民族共同体の幻想が崩れていく今、個人と社会との関係を再構築する規範づくりが求められている。まちづくりにおいても、参画と協働を繰り返しながら対立を回避するルールを明文化し、みんなが共有できる市民共同体の幻想を確立する必要があるのではなかろうか。

070928(Y.I記)

http://www.nmdc.jp
posted by nmdc-yi at 15:50| Comment(0) | TrackBack(0) | まちづくり

2007年08月31日

若者意識の変化がもたらすもの

8月22日の日経新聞に、日経新聞社が首都圏に住む20代の若者を対象に実施したアンケート調査の結果が紹介されていた。記事によると、2000年からの7年間で、20代の若者のうちクルマを所有する割合は23.6%から13.0%に低下し、欲しいと思う人の割合も48.2%から25.3%に半減した。また、酒を全く飲まない人とほとんど飲まない人を合せた割合は、20代で34.4%と30代を6.8%上回る。その理由は、30代に比べて酒に弱いとする人の割合は10%少ない一方で、お金がもったいないとする人の割合が10%多い。

これらの結果をみて、物欲から解放され、合理精神を備えた若者の姿を頼もしく思う一方、職縁、地縁、酒縁など、合理性とは全く無縁の馴れ合いの“縁”に支えられた日本の社会に背を向ける若者の姿に一抹の寂しさを感じた。

若者意識のこうした変化が交通に及ぼす影響については、今後詳細に検討が必要であるが、直感的にはモータリゼーションの進展に一定の歯止めがかかるのではないかという期待を持てそうな気がする。クルマは所有するより、必要な時に借りて利用する方が合理的であることは、簡単な試算で確かめられる※。それでも、所有することを選択するのは、物欲や所有欲など合理精神以外の意識が働くからに違いない。若者が、物欲を捨て合理精神で判断するようになれば、クルマの所有は増えないはずである。

若者意識が変われば、モータリゼーションに歯止めがかかり、渋滞などの交通問題は解消し、地球環境に対する負荷が軽減されるかもしれない。このように仮説を組み立てると、若者意識の変化は社会にとって喜ばしい結果をもたらすように見える。しかし、一方で、酒縁を避け、休日は家事に精を出し、社交よりも貯金を好む若者が増えれば、人と社会の関係はますます疎遠なものになる危険を孕んでいる。若者がお付き合いしたくなる社会を創るために、人それぞれのニーズや合理的な選択にマッチできる多様性と魅力を備えた、交通まちづくりが求められている。

※例えば、カーシェアリングとマイカーのコスト比較の試算はこちら
http://www.nmdc.jp/gyoumu/gyoumu03_01.pdf

070831(Y.I 記)

URL:http://nmdc.jp
posted by nmdc-yi at 15:42| Comment(0) | TrackBack(0) | まちづくり